く ら
冥き月
何処からか、声がする。
朧気(おぼろげ)な夢の記憶のよう。
瞼の裏に、ぼんやりとその影は残るのに、目覚めるとそれは、霧散する。
思わず目を奪われる優雅な仕草と、知らぬ間に心に入り込む、
魅惑に彩られた甘言。
それらはすべて、かつて天にあり、堕ちた者達の巧技。
惑わされてはいけない。惹かれては。
“Lilith――リリス。何故私をその名で呼ぶの。”
アダムの妻とされながら神に背き、無数の悪魔と交わった上に、魔王の花嫁
となったという夜の魔女。男に支配を許さぬ気高さと美貌は、聖職者達を
誘惑する夢魔と化し、彼らを悩ませ続ける。
“魔族の言葉に 耳を傾けてはいけない”
幼い頃から繰り返し教えられた言葉。
その声を聞くことすらふしだらなことのようで、少女は小さな手で、耳をふさいだ。
背後から響く、低く、染み入るような魔性の囁き。
闇の底から、愛おしむように彼女を誘(いざな)う腕。
未だ知らぬ甘美な背徳への好奇心が、心の底で、幽(かす)かな
蝋燭の焔(ほむら)のように揺らめく。
いけない、声を聞いては。
そんな気の迷いは、ほんの一息、吹き消してしまえば良い――
背筋がビクッと痙攣して、夢から覚めた。目に映ったのは、ベッドの天蓋。
何故か宙を掴むように伸ばされていた腕に気付き、インテグラはその手を下ろした。
額に触れると、既にひんやりと熱を失った汗が、わずかに指を濡らす。
――まだ、目覚めの時には早過ぎる。
枕元の時計は、午前四時を差していた。
ほんの少し前に見ていたはずの夢が、既に不確かな靄(もや)のように薄れている。
何の夢を見ていたのだろう。そう、誰かが……何者かが彼女を、不浄の名で呼んだ。
リリス――と。
その名を語った者の声も、姿も、その時にはハッキリと分かっていたような気も
するのだけれど、もう覚えてはいなかった。
――この夢を見たのは、初めてではない。
両手で覆った瞼の裏に、微かな記憶が蘇る。
いつからか、遠い呼び声のように、繰り返し彼女を悩ませていた夢。
父がまだこの世にあった頃のことだ。
いつも、目覚めてしまうと、それがどんな夢であったのか、よく思い出せず、
部分的な記憶が、得体の知れぬ不安を募らせた。
けれど、無理に思い出そうとすると、却って自ら穢(けが)れへと歩み寄るようで、
それも恐ろしくて。
幼い少女は、その度にベッドの中でうずくまり、夢魔を忘却の淵へ押しやろうと、
独り闇の中で震えに抗(あらが)った。
最後にこの夢を見たのは、いつのことだったろう。
父がこの世を去り、自分の命と、ヘルシングの家を狙った叔父をこの手で殺し、
当主となってからは、毎日が無我夢中で、夢を見ることすら忘れていた。
この四年は、目覚めている間こそが悪夢の連続のようであったのだから。
だが夜も明ければ、インテグラはすっかり夢魔のことなど忘れていた。
たかが夢だ。彼女も、少女の頃とは違う。
いつまでも、“怖い夢”などに怯(おび)えたりはしない。
* * * *
一日が無事平穏に終わりそうな気配が夜に満ちると、緊張が一気に解け始める。
「――インテグラお嬢様、どうか酒量は控え目に」
もう下がって良いと執事に伝えたところ返ってきた言葉。
居間で窓の前に立ち、ボンヤリと葉巻をふかしていた彼女は、ハッと振り返った。
執事は、扉の前で礼をすると、理解ある保護者の如き穏やかな笑みを浮かべ、
出て行った。
バレていたか。
当然だ……とインテグラは思った。
去年十六歳になり、喫煙は憚(はばか)ることなくできるようになったが、飲酒はまだ、
十八になるまで許される行為ではない。だが執事は、彼女の負った年令不相応な
重責ゆえのストレスを思ってか、ほんの息抜きとしての少量の飲酒は、お目こぼしを
してきたようだ。
それでも今夜クギを刺したのは、近頃わずかながら酒量が増えているのを、
知ってのことだろう。すべてお見通しなのだから、まったく、かなわない。
だがインテグラには気まずさよりも、何だかくすぐったいような笑みが浮かんだ。
テーブルに戻ると、ちょっと腰を曲げて、灰皿に葉巻を置いた。
不意に濃厚な甘い香りが、鼻腔を酔わせる。
壁際のチェスト上に活けられた、白い百合の花の匂いだった。
――純潔の象徴、聖処女マリアの花。
彼女は思わず歩み寄り、その花弁に指を伸ばした。
「花を愛でるとは、お嬢さんらしいところがあるのだな、我が主(あるじ)」
先程まで、微塵も気配を感じなかった場所から、声がする。
今も、その意味では“気配”など無い。
振り返ると、テーブルの脇の椅子に、彼女の従僕が座していた。
テーブルに肘をついて、まるで彼女を1枚の絵画のように眺める姿で。
「皮肉か?」
インテグラは花弁から手を離すと、腰に手を当て、挑戦的な眼差しで問いかけた。
「何故そんな風に取る」
従僕は、サングラスはかけていなかったものの、相変わらず何を考えているのかは、
その瞳からは伺えない。だが、初めての忌まわしい出会いの日より、この存在から
敵意を感じることはなかった。あるいは……それを悟らせないだけなのか。
「私には花など似合わないというのだろう」
「そんなことはない。その花は、おまえさんによく似合っている」
「聖母マリアの花か? カトリックでもあるまいし」
この矛盾に満ちた存在を従僕とすることに、彼女はもうとっくに慣れたつもりで
いるが、まだいささか、強がりを見透かされていると思う瞬間がある。
その証拠に、従僕の口元に、先程まではなかった、微かな愉悦が映る。
「――聖母マリア? インテグラ、そんなものは存在しないということは、
おまえなら知っているはずだろう」
インテグラはフンッと息をつくと、テーブルまで戻り、また葉巻を取って火をつけた。
従僕は彼女のすぐ横にいたが、お互い視線を交わすことはなかった。
「マリアのイメージは、異教徒達を取り込むために造り上げられた、
異教の女神達からの混成体に過ぎない、という説のことか?」
“父”なる神、そしてその“息子”イエスを崇拝するキリスト教において、
“聖母”マリア信仰は、長く、異端として迫害された。その辺りの宗教学は、
インテグラも知識として持っている。
「マドンナのシンボルである白百合ですら、元々は異教の女神のものだ」
「ほう。そこまでは知らなかった」
この従僕は、長い時を過ごしているだけあって、時々妙なことまで知っている。
けれどインテグラは、興味がありそうな無さそうな素っ気ない素振りで、
葉巻をくわえたまま、また窓際へと歩き出した。
だが彼女は従僕の呟きに、ピタリと足を止めた。
「百合(リリィ)は――本来“リリス”の花だからな」
Lilu Lily Lilith
血と快楽、生命と死を貪(むさぼ)る者
その子供の血を飲んだ太古の母
血の大海から万物を産み出す――
「そんな……聖書正典には無い名前など」
何故か困惑が彼女の思考を乱した。
そもそも何の話から始まったことだっただろうか。
「どうした?」
少しだけ首をこちらに向けた従僕と、目が合う。闇にこそ映えるような……紅い瞳。
「アーカード、おまえ、」
インテグラは、手に持った葉巻が微かに震えているのに、気付いた。
何だろう。この、言いしれぬ既視感(デジャヴ)、そして、不安。
“魔族の言葉に 耳を傾けてはいけない”
父の教えがふと脳裏に蘇り、インテグラはまた従僕に背を向けた。
その声に、耳をふさぐように、そしてぎゅっと眼を閉じた。
辺りが闇に包まれたように感じる程、強く。
不意に、首筋に何者かの手が伸びたような気がして、振り向きざまに
払いのけようとした。――が、そこには誰の姿も無かった。
先程までいたはずの、従僕の姿も。
思い出しかけたのは、何のことだっただろう。
ふと見上げた、窓の外の月。
それは、細い細い牙のように冷たく、暗く。
今にも地平に落ちてゆきそうな危うさで、空に浮かんでいた。
11.25.2003.